教師の日常

日々の出来事の記録です。主に仕事、子供、病気のこと。

今はいない人

学生時代に、同じ学部の友達が複数いた。

今でも年賀状のやり取りぐらいは続いているが、

なかなか会って話ができるまでには至っていない。

いつも「今年は飲もう」などと書いていたが、

自分が病気になってからは、それもできないため、

まあ、会えたら面白いかな、ぐらいに捉えている。

ちょっと距離を置いている感じ。

 

そんな中、毎年ご丁寧に年賀状をくれる、友達のご両親がいる。

今年は喪中ということで、

そのご両親からは、挨拶のみのはがきが届いた。

 

その友達は、教師を目指していた。

朝も早くから、夜も遅くまで大学にいた。

だいたいどこに行っても、彼は元気な姿でいた。

そして、誰かしらと一緒にガヤガヤと過ごしていた。

 

こういうと大学の人気者的なイメージをもつのだが、

どっちかというと、呼ばれてもいないのに顔を出している感じだったり、

あちこちに顔を売って、コネクションを作っていたり、

とにかく顔の広い人だった。

どこかの小学校の支援員だかボランティアだかになって、

毎週のようにその学校に行っては、

その学校の愚痴や文句も聞かされた。

「だったら辞めりゃいいじゃん」とも言うのだが、

「それも勉強だから」と、妙に達観したような感じで、

それでも毎回愚痴っているものだから、

よく分からないけど、その小学校の教員についてやけに詳しくなってしまった。

 

僕はまだ、「指導要領」と「指導要録」の区別も付かないような、

勉強もまだまだな若造で、そもそも教員になんかなれるのかしら、と、

毎日不安に思いながらも、サークル活動にかまけて、

不安を紛らわしていたような生き方をしていた。

 

大学4年。彼は採用試験に一発で合格し、

4月には、そのどこかの小学校と同じ地区の、別の小学校に配属になった。

僕はやっぱりというか、不合格となり、

別の地区の小学校の非常勤講師になった。

週3日勤務で、月12万という(自分の中では)破格の給料に惹かれたのもある。

友達からは「うまいことやったな」「いいなぁ」と言われたが、

それでも非常勤講師という身分に、何か言いようのない不安を感じた。

 

友達はその小学校でめきめきと力を付けた、ようだ。

実際のところは見ていないし、彼の言うことだけを聞いていたので、

よくは分からない。

ただ、毎週のようにかかってくる電話の様子では元気そうで、

相変わらずその学校の文句や愚痴を言っては、

楽しそうに笑っていた。

僕の家からは遠いところだったので、なかなか会えないものだが、

「お前ら、付き合っているのか」と親に言われるぐらい、

毎週のように電話がかかってきた。

そのたびに愚痴とも不安ともつかない、焦りのようなものを、

毎週お互い言い合ったものだ。

 

1年経って、僕も採用試験に合格した頃、不意に彼から言われた。

「癌になった」

どうも質が悪いらしく、あっという間に転移する種類で、

あんなに元気だった彼は、4月から休職して治療に入った。

 

GWに、別の友達と見舞いに行った。

その時は病院に行ったのだが、入れ違いに一時療養で退院していて、

家まで押し掛けて文句を言った。頭の毛がなくなっていた。

「気晴らしに行こう」

焼肉屋に連れて行った。もちろん飲み食いも制限はあるが、

元気に喋っていた。

大丈夫なんじゃないかなと思っていた。

 

次の年、僕が研究授業をすることになった。

「行くよ」

本当にわざわざ電車を乗り継いで、

学校まで見に来た。やせ細って、頭髪もなくなって、

明らかに病人の様子だったが、

授業が終わって、協議会も出て、打ち上げまで付いてきて、

「いやぁ、楽しかった」と自分のことのように楽しんで帰っていった。

 

その後、2度と会うことはなかった。

 

さらに次の年の4月。

別の友達から「亡くなった」と電話が来た。

発病から2年だった。病気の割に長生きしたのか、よく分からない。

お通夜、告別式、納骨まで参列し、友達の死を静かに悼んだ。

 

毎年命日に彼の実家に集まっていたが、

いつの間にか行けなくなり、今ではご両親とも年賀状のやり取りしかない。

あんなに毎日会っていて、馬鹿なことや真剣なことを喋っていた学生時代が、

本当に遠い昔のように思う。

 

年賀状のやり取りをする友人はもう少ない。

今年は年賀状をどうしようかと悩んでいるが、

寒中見舞いは書こうかなと思っている。