その男の第一印象は、最悪だった。
とにかく、巨漢で、目つきが鋭い。
5人くらい殺してるのかと思った。
そんな男が、私を睨んできて、ボソッと「殺すぞ」と呟いた。
「近寄ってはいけないアラート」が発動された。
精神科に入院した時のこと。
やることは薬を飲むこと、普段の生活を営むこと、体力づくり、日記を書くこと、そしてロビーに置いてあったマンガを読むことだった。
家族は面会できず、自由な外出も禁じられている。
携帯もなく、外部との連絡はほぼできない。
めまいで何かがおかしくなって、うつ病になって、ここまで来たか、という感じ。
その初日。
その男と出会い、違う病室がいいなと思っていたら違う病室になった。
ただ生活上、あちこちで出会うことは多かろう。
見かけたら素早く方向を変えて、関わらないようにした。
一週間後。
洗面所で顔を洗おうとしたら遭遇。向こうはカミソリで髭を剃っていた。
殺られる。と思うと同時に。
「こんにちは。元気ですか?」
……あ、わたし?
話しかけられた。しかも丁寧語!
「こんにちは。何とかやってます。」
そんなモゴモゴした会話が、意思疎通の一回目だった。
次に会話した時は、強烈だった。
たまたま病室の前の名札を見て、私のことが気になったらしい。
すごい勢いで乗り込んできて、一気に捲し立てられた。
「あなた、◯◯というんですね。僕が好きな伝説のヤ◯ザと同じ名前じゃないですか?え?親戚かなんかですか?そもそも◯◯というのは、何人も殺してて…」
この調子で10分近く、その伝説の人の物凄さを熱く語られた。
病室内には物騒な言葉が飛び交い、不穏な空気で満たしていった。
人の話を聴くのは首相より得意なので、いちいち頷いて聞いていたが、たったそれだけのことで、「あなたは話しやすい。優しいオーラが出ている。気に入ったよ」と気に入られてしまった。
その次の日から雑談に誘われるようになった。
「ロビーで雑談をする」という日課ができた。
お互いの仕事、趣味、やりたいこと、今までの人生、病歴。
書けない話ばかりだが、退屈な入院生活にやることが増えた。
雑談が終わる頃にいつも、「あんたは話しやすいよ。優しいんだな」と肯定されるのも、知らず知らずのうちに治癒効果があったのかもしれない。
やがて耳鼻科での適切な治療が功を奏し、だんだんと改善が見られるようになって、退院の目処が立ってきた。
彼は、何らかの薬の影響で、昼間はほとんど起きられなくなっていた。
たまに夕方頃起きてきて、大丈夫か、と声を掛けたが、虚に返事をするだけだった。
それでも調子のいい時には雑談を繰り返した。
前に聞いた話を何度もしていたが、今までに聞いたこともないような世界の話は、何度聞いてても飽きなかった。
退院が決まった話をすると、
「そうか。よかったな。寂しくなるなぁ。俺、引き取り手がいないから、まだ先になりそうなんだよ。あんたの養子にでもしてくれないかな。」と笑いながら話していた。
お互いに大笑いしてやり過ごした。
退院前日、トイレでたまたま会った。その時も起きたばかりで、何となく虚だった。
「大丈夫かい?」
「あぁ。明日は話せるよ。」
「いや、明日は…」
言葉が出なくなった。退院だと言えない。
「…あ、明日か。はい、さよなら、だ。」
そう言って彼は背中を向けたまま去って行った。
当日。何とか話したかったが、結局彼は起きて来なかった。
あんなに世話になったのに、ろくな別れもできなかった。
帰宅後、伝説のヤ◯ザを検索したら確かに出てきたが、私の親戚ではない。
彼の話の一部を検索したが、何も出てこない。
もしくは出てこないようにしているのかもしれない。
いま思い返すと、話したことの何がホントだったのかは分からない。
分からなくていいと思う。
あの時、あの時間を過ごしたことは事実なんだから。