教師の日常

日々の出来事の記録です。主に仕事、子供、病気のこと。

親になって

親になって思うことは、通知表を大して真剣に読まないということ。

学期を振り返った文章。いわゆる「所見」という欄。

担任の先生が、きっと過去の授業中の態度などを振り返りながら考えて、目立った場面を書いても、読む方は、「ほー」と思って終わる。

親になって読むとよく分かる。

わずか10秒程度で読める文章に、感想は一言。

 

なぜなら、自分がその場にいないし、教師の見た事実(という主観)で書かれているから、「ほー」としか言いようがないのだ。

「~をまじめに取り組んでいました。」

「~に、すすんで取り組みました。」

「~素晴らしいと感じました。」

そうか、先生はそう思ったのか。うちの娘も頑張ったのね。

それらが混じった「ほー」である。

 

評価の方は、「ふーん」と思う。

まあ、自分が昔どの程度の学力だったかを思えば、こんなもんかな、妥当じゃないかな、と思ってしまう。

これが、全部「よくできる」みたいな評価だったりすると、逆に怪しく感じてしまい、学校に電話してしまいそう。

もちろん、逆もそう。良過ぎても悪過ぎてもウソっぽい。

もちろん、基準があって、線引きして出しているはずだから、適当ではないんだけど。

 

あと、総合的な学習とか、道徳とか、外国語とかそういうのになると、もう、なんだろう。

そうですか、そうですか、という感じにしかならない。

実際、総合は学校によって内容が違うし、指導内容の計画が示されるわけではないから、何をしてるかよく分からない。

道徳は申し訳ないが、はいはい、そうですか、ということしか書けないから、何とも思わない。

大体、道徳を評価すること自体、おかしなことだと、ずっと思ってる。

評価せよなんて言う奴がおかしい。

 

いや、それにしても、こんな感覚になるんだと、親になってみて初めて分かった。

こうやって読んでると、自分がいかに、通知表に無駄な力を注ぎ込んでたか分かる。

学期末になって、力を入れて所見を人数分作成して、テストを必死にこなして、成績を出して、配布してみても、多くの親はこんなことしか思わないんじゃないかと思う。

 

だったら、もっと所見を短くして、成績も「できる」「がんばろう」の2段階にして、道徳や総合、外国語という名の英語なんかも、記述を減らせばいいのに。

 

という提案をすると、なぜか校長は、「保護者が納得しない」と反対する。

いや、だから保護者として思うんだけどさー、なんて言っても聞きやしない。

具体的にどこの保護者が言ってるのか聞いても、頑なに言わない。

自分たちが担任時代に苦労してるから、今の奴らに楽させてたまるか、という意地悪にしか見えない。

 

教師の働き方改革は、まず通知表業務を減らすこと。

それだけでも、学期末の慌ただしさが、少し解消されると思うんだが。

実際、通知表の所見を作成する代わりに、個人面談を行う流れでもある。

どっちが楽なのかはよく分からないけど。